淡さを形に

面白い作品を面白いと言うだけのブログです.考えたことの備忘録として使うのが主 .考察っぽいことや演出とかに触れることもありますが別段その手のものを勉強しているわけではないのでかなり適当です. Twitterでは@tkihoroloのアカウントにてたまに話してたり話してなかったりします.コメント等あればTwitterにリプ投げてくれると嬉しいです.

さよならの朝に約束の花をかざろうでボロ泣きした話

要は「さよならの朝に約束の花をかざろう」を見た感想記事です.

ただ純粋にこの作品への感想というよりは直近で感じた自分の体験と重なって泣いてしまったという面もあるので自分語りも入ってる.

自分について

感想記事と言いながらいきなり自分の話をするのもどうかと思うが,自分のバックグラウンド込みでの感想なので許してほしい.

この作品を見る日の朝,「母の強かさ」を感じる瞬間があった.自分は学生とはいえ流石に子供とは言えない歳ではあるが子が何歳になろうと母は「母」なんだな,と.

鑑賞日の前日にお酒を飲みすぎて酔い過ぎてしまった.これだけ聞くと本当にしょうもないが,ここ2ヶ月くらいはかなり忙しくほとんど休む暇もなく活動していた.そのせいかかなり気を張っていたらしい.お酒の場では特になんともなかったが帰宅して力を抜いた瞬間に普段抱えてる色々な悩みや不安が溢れ出てきてしまった.ただひたすら「無理」とか「ごめん」とか「ちゃんとしなきゃ」とか言ってた記憶しかないし,(ツイートした記憶はないが)後で見返すとかなり疲弊した様子の自分のツイートもあった.「1人でなんとかしなきゃいけない」だとか「甘えたらダメ」だとか「何もしてない自分に価値がない」だとか承認欲求だったり他人に甘えられない性格だったりと色々なものが含まれていた.

流石に荒れ方が酷かったのか母にその時言われたのが「ちゃんとしなくていいんだよ」って言葉だった.それを言われた瞬間涙が溢れてしまったことを記憶している.

そこからいつの間にか寝ていたらしいが,起床後(なので鑑賞日当日の朝にあたる)に母と話す時間があったので酔っていた時の続きの話を3時間くらいしていた.「君がそんだけ生真面目な性格になっちゃったのも他人に甘えることができないのも全部私のせいだから.だから自分を責めないでほしいし私のせいにしてほしい.だってそういう背中しか見せてなかったから」と母に言われた.

自分の家は母子家庭なこともあり「大人の生き方の例」として母親しかほぼほぼ見たことがなかった.だからこそ「子は大人の背中を見ることでそれが正しいと思ってしまうもので,私はそういう姿はほとんど見せなかったし見せられなかった.1人で育てなきゃいけないからハメを外した姿を見せることはないし,だからこそハメを外すことを悪だと思って育ててしまったかもしれない.そんなことはないし人生はまだまだ長いんだからもっと楽して泳ぎやすいところで生きてほしい」とのことだった.

さて,突然だが大学へ入学するにはとてもお金がかかる.勉強するには塾に通わせることもある.場所にもよるが自分が通っていたのは月7万だったと思う.更にいざ受験しようと思うと受験料だけでも3万近く使うし,複数校受けるとなるとそれがのしかかる.そして合格したとしたら今度は数十万以上の入学費と授業料だ.こんな額は一朝一夕じゃ普通は稼げない.大学へ行きたいという言葉とこの金額を告げたとき母は「大学って両親共にいることを前提とした金額だなぁ」と言っていたと思う.それでも僕の意志を汲み取ってくれてお金を稼いでくれた.そのために普段の仕事と同時にアルバイトも始めてひどい時は月に2日しか休んでないとのことだった.母は高校卒業から働いていたので大学という存在は知り得ない世界と言っていて,でも僕が行きたいならアドバイスは出来ないけどお金は稼ぐ,だから君はそれをリソースとしてやってくれという会話を昔にした記憶がある.そのせいか受験で僕が,仕事で母がどちらも疲弊しておりすれ違いが多く仲が良いとは言えない状況だったと思う.結果的に大変申し訳ないことにあまり頭の良い大学には行けなかったが,大学で得られたものは多く今では非常に感謝をしている.

つまるところ僕にとって母親は「強かで芯があって優しい」人間だった.普通これまでこんなに頑張って生きてるはずなのに「私のせいにして生きてほしい」なんて言えない.いくら子供が大学に行きたいと言ってもそこまで尽くしてくれる人間なんて早々いないはずだし,なんなら「大学は諦めてくれ」と言ってしまうのではないだろうか.なのに身を削って母は僕に尽くしてくれた.そして,こんな年齢になっても母は「母」でいつづけている.その理由を聞いても本人曰く「母親だから」だそうだ.もちろんそれでも人間なので嫌な部分はあれど,僕はこの母親に一生頭が上がらないし嫌いになることは出来そうにないだろう.

前置きが長くなったがこの「さよならの朝に約束の花をかざろう」を見た感想を書こうと思う.とは言うもののずっと泣いてたので多分感想が言葉になってない気がするが.

さよならの朝に約束の花をかざろう

この作品自体はなんとなくタイトルが面白そうなのと東地さんの背景が好きなので見てみるか,くらいだったので内容については下調べしていなかった.それにも関わらず偶然にしても見るタイミングがあまりにもちょうど良く驚くくらいに作品にぶん殴られた.本当に泣き疲れた.終わった後は鎖骨がびちょびちょに濡れていた.

母親の役割

この作品では「エリアルとディタ」以外の家族は父が欠けた状態で描かれていた.「マキアとエリアル」はもちろんのこと「ミドとラングとデオル」,父(ヘイゼル王子)は生存してはいるもののその役割を果たしていない「レイリアとメドメル」だ.このことからも恐らくこの作品で描きたかったものの1つとして「母親」があるんだと思う.そこでひとまず各家族においての「母親」について考えてみた.

「ミドとラングとデオル」では一般的な母親像が描かれていたのだと思う.母親というよりは(劇中内でもそう呼ばれていたが)かーちゃんのほうがニュアンス的に近いだろう.夫を亡くしたあとにも女手一つで子供を精一杯育て上げているような理想的なかーちゃんとも言えるだろう.だからこそ母親になろうとするマキアを「母親」としてやっていけるように面倒を見るポジションにいたとも考えられる.

「レイリアとメドメル」では「母親とは」が描かれていたのかな,とか.「母親だから」という面というか.メドメルは好きだったクリムの子ではなく連れ去られた先で産まされたヘイゼル王子との子で,面会は許されてなく産んだ直後から会うことすら出来なかった.語弊を招くしすごく雑な言い方をしてしまえば産んだ直後から会えていないということはレイリアとメドメルの間には思い出もないわけで産んだという事実以外はもはや他人のそれだろう.

劇中内でも「メドメルに会わせて」と懇願するシーンや「もう匂いも忘れちゃいそうなの」と言っているシーンもあったように,それでもレイリアはメドメルを愛していた.そしていくら好きだったクリムが助けにこようとメドメルを置いていくことは出来なかった.それは「母親だから」なんだと思う.「母親だから」メドメルに会わずに去れないし,いくら産まされたとは言え産んだ以上は母親であり,好きだったクリムが助けに来てもそれを捨てることが出来なかった.経緯が複雑であれど母は子を愛してしまいそれが「母親」であるのかなと感じた.理屈ではなく母は母だからこそ子を愛す,という構図がここから見ることが出来るように思える.

「マキアとエリアル」では子育てを模索する実際の母親像が描かれていたように思える.ミドは作品の登場時点でもう「母親」として完成していた.レイリアに関しては「母親」の気持ちが描かれることはあれど子育てに関しては何もすることが出来なかった.それを踏まえて考えるとマキアはこの作品の中で「母親」とはなにか,と探すキャラクターとなっている.それはマキアには両親がいないことからも言えるだろう.

現実世界においても母親は初めから完璧な「母親」ではない.子供を授かって育てて初めて「こうすればいい」と模索して学んでいく.そういった姿がマキアによって描かれていたのではないだろうか.しかも初期の頃ではマキアは15歳なわけで,自分もどう生きればわからない幼さにはその面を強調しているようにも思える.

そして実際にマキアは「母親」として成長していく.その中でも失敗することはあった.エリアルが勝手にヒビオルを織っていた時に「これ以上仕事を増やさないで!!」と言ってしまったところが顕著だろう.仕事探しで疲弊していたと言えど結果的にエリアルの気持ちを無視したものとなってしまったが,これをきっかけにこれまで泣いていたが「母親」と泣かないことを決意していた.

また,ディタが出産をする際にマキアが立ち会って無事出産出来たこともマキアが母親たるものとして描かれていたと思っている.もちろんではあるがマキアには出産経験はない.しかし,なぜあれだけ手際良く出産のアシストをすることが出来たかと考えてみると予めその知識を入れていたからだろう.これは想像になるがもしかしたら「母親」なのに出産経験がないことに対してどこかしこりが残ってて知識は頑張って習得したのかもしれない.この補完は個人によりけりではあるが,結果的にまるで出産経験した母親かのようにマキアは出産サポートをすることが出来ていた.このシーンについては自分で出産していないという部分がマキアに欠けていると考えるならばそれを補っているとも捉えられるかなぁと思った.

「マキアとエリアル」,「レイリアとメドメル」の関係を鑑みるにこの作品において「母親」とは単純に関係性を表すのではなく「母親であろうとする姿勢」のことなのかなと考えた.

「マキアとエリアル」を取ってみるなら血縁関係ではないけれどもマキアはエリアルの母親であろうとしていた.もちろん,マキアにとってエリアルは「母親」以外の感情も含まれていたとは思う.エリアルに対して「母親ではなくとも私を呼んでくれるならばそれでいい」と言っていたように「母親」とは別の感情もあったんだろうとは.多分そういう関係とか抜きに純粋にエリアルを「愛して」いてだからこそ「母親じゃなくてもいい」という発言につながるのだろうと感じた.ただそれでも今まで「母親であろう」としたし「母親でありたい」と思っていたのは確かであって,最終的にエリアルに「母さん」と呼んでもらえたことからもマキアは「母親」だったんだろうと思う.

「レイリアとメドメル」に関しても最終的に親子の縁を切った形にはなったが,確かに「母親であろう」としていたかな,と思っている.クリムとの会話でもあったが,他の人は全員死んでいると思っていたために「母親」としてしかレイリアは生きられなかった.しかし,いざメドメルに会ったときには「母親」としての縁を切った.ここの解釈については幾分悩んだが入場者特典のスタッフ座談会を読むことで自分なりの回答が出せたと思っている.レイリアにとっていざ自分の子に会ったと思ったら自分と大きく違わないくらい成長していたとしたら確かにもう「終わり」のように思える.子がこんなに成長したけど結局それまで母親らしいことはしてないし,もうそこまで成長してしまったら母親として介入する余地がない.だからこそ最後に「私を忘れて」と言い放ったのだと考えた.最後に偶然出会ってしまったけれども,これ以上母親としてできることは何もない.ならばせめて最後は「母親」として「母親の存在は忘れて,変なしがらみやしこりが無く子供に生きてほしい」という意味を込めての言葉だったのかなぁと.

感想

あとは単純に鑑賞時の気持ちを思い出せる限りぶち撒けます.

なんというか本当に「母親」を感じる映画だったなぁと.母子家庭だったせいかこの辺りの描写がとてつもなく胸に刺さった.マキアが頑張って母親になろうとしていた姿を見ると,昔見た自分の母親が彷彿させられてなんだか本当に変な感じだった.何か特別な記憶と結びついてるわけではないけど,この映画を見て感じる「母親」と自分が感じている「母親」がかぶってしまうというか.幼いエリアルをあやすシーンなんか母親力が強くてああいうなんでもないシーンだけでも涙が止まらなくて,多分僕の母親もこうだったんだろうなぁとか考えてしまう.それと自分もつらいことがあるのに気丈に「母親」として振る舞おうとするところとか.母親の理想形として描かれているミドの真似をしてお腹を叩くところとかかなり好きだった,あとは幼いエリアルが織ったヒビオルをずっと飾ってるのもほんと「親」だなぁと.

というのと(もう何度も言ってるけど)母子家庭のせいかエリアルに気持ちが寄ってしまったのはとてつもなく感じた.幼い頃でいうならあの純粋に母親が好きな気持ちなんかはとても良くわかる.確かに母親にずっとベタベタくっついてた.

さよ朝,この辺の小さな気持ちを描くのが本当に上手かったなぁと.ディタの好きな子をいじめちゃう感じと自分の言いなりにさせて喜んじゃう感じとか「あぁそういや小学校の時こんな奴いたよ」って感じ.とか母親が知らない人と話してると取られちゃう感じがするとかね.今じゃもう思わないけどこんな時期僕にもあったなって.というのと,結果はどうあれ母親が喜ぶためにはどうしようみたいな感じとか.それこそ劇中内で言うならありがとうっていうヒビオルを織ったり抜け殻を作ったりだとか.「母さんを泣かすなー」だとか.全く同じではないけど似た気持ちを昔感じていたのを呼び起こされる感じでなんかこの辺で変な涙が出てた.母子家庭に限った話かはしらないけど,小さい頃って母親が落ち込んでたりとかするとなんとかしなきゃみたいに思っちゃうんですよね.もしかしたらそれもエリアルが思ってた「守れるようになりたい」に近いのかもしれない.あとエリアルが死んだ後もマキラはやっぱり「母親」で母は子がいくつになっても「母」であるっていうのが感じられてほんと好きです.

見てて思ったのはこの作品は絵でぶつけてくるなぁと.すごく形容しづらいんだけど絵の説得力がとてつもない.絵から生命力が溢れるというか.わかりやすいところなら一番最初にエリアルを見つけた時の手とか.なんだろう,なんかもうあれだけで涙が出てた(あのシーンは「母親」を描いているシーンなのも相まって)."""生命力"""がすごいし圧がある.ヤギの乳とかもそうだった気がする.あれは「おっぱいをあげなきゃいけないけど自分は出ないからどうすればいいかわからない」みたいな感じがよく出てて結構好きなシーンです.

絵と言えば明暗についてかなり気を遣って描かれてた気がする.例えばメザーテに初めて来て,(パレードのテロを企てていた)イオルフの仲間と会ったときにはマキアは暗い位置に移動するけどエリアルだけは明るい位置から動かなかったりだとか.光の演出が凝ってた気がする.

というのとマキアの声優さんがめちゃくちゃ上手いんですよね.一番「うわぁここ良い」って思ったのはエリアルに「ここにいると母さんが母さんじゃないみたい」ってちょっと拗ねてるときに一気に母親モードになってこちょこちょをするシーンとかすごく"""母親"""らしかった.なんて言葉にしていいのかわからないので母親らしいとしか言えないけど,あの優しく包んでくれる感じといいあやそうとしてちょっと声のトーンが明るくなったりするところとか母親だったなぁと....!

それと物語に惹き込む力が強くてオノラが墓場に埋められるシーンなんかでも泣いたりしてた.あれはさよ朝のテーマでもある別れに関わってくるというのもあるけれど,純粋に「エリアルのそばにいてマキラが他のことをやってるあいだずっと代わりに見てくれたオノラが死んでしまった」ということで涙が溢れてた.多分オノラが出てたシーンなんて時間にしてみればほぼないんだけど,その短時間でこんなに惹き込まれてその作品内の世界観に浸れることを考えるとこういう小さいところにもかなり気を遣ってるんだろうなぁとか.「あぁ,きっとこんなことがあったんだろうなぁ」とつい想像してしまうような情報量の与え方というか.そのおかげかこういうシーンでも変に感動してしまう.最後にエリアルの孫世代にもオノラと同じ犬種の犬がいたあたりにも,きっとエリアルが昔を覚えて飼ってるのかなぁとも想像できる.この情報量の与え方が上手くて2時間の間に人の一生がぎっしり詰まってたと感じた.思い返すとエリアルが成長して老人になるまでを2時間で語ってたわけでそうとは思えないくらいのストーリーをあの物語内で見ていたように思える.

別れのテーマ性も非常に面白かった.クリムのように時を止めようとするのではなく時を進めて出会って愛して別れてをすることで人と人が繋がってその証拠が子供となるしそれこそが日々織って歴史を刻んでいたヒビオルとなるんだなぁと思った.だからこそマキアはエリアルのヒビオルを背負って生きるし,最後のシーンで描かれていた孫もエリアルとディタのヒビオルであるとも言えるわけで.

本当に「母」とはなにか,ということにすごく考えさせられる作品でした.この映画を見終わったあとに街で見かける親子を見るときっと映画見たようにどこかで子を愛しているんだろうなぁとちょっと思うようになってしまった.というのと自分の母親の何気ない挙動・気遣いに気づくようになったりした気がする.だからこそ実家で暮らしている内はきちんと手伝って少しでも楽にしてあげたいなとか.

素晴らしい作品に出会えてよかったです.スタッフの皆様,本当にありがとうございました.

f:id:tkihorolo:20180311180347p:plain